客先の微妙なルールが自分がいかに弱い立場にいるかを思い知らせてくれる。
デスクでケータイを充電するな とかね。
客先の微妙なルールが自分がいかに弱い立場にいるかを思い知らせてくれる。
デスクでケータイを充電するな とかね。
自作PCにコストメリットがあったのは遥か昔のこと。今では完全に趣味の世界。
昔は自作PCを組んで、家庭内ネットワークを構築してメールサーバやDNSサーバなんかも運用していた。完全なオンプレ環境。今ではgmailとさくらインターネットのレンタルサーバになった。考えたら家庭内はとっくの昔にクラウド化されていた。
子供の授業参観に行った時に「教室はまちがうところだ」という詩を知った。みんなの前で話すのは怖いし恥ずかしい。けれど最初から上手にできる人なんていない。どんどん間違えていこうといった内容だった。心に残った。
社会人なって驚いたのは未来の予定をまるですっかり見通しているかのようにスケジューリングしてその通りに物事が進捗していくことだ。勿論ぜんぶ嘘っぱちだ。ごまかし二重帳簿の産物だ。
フォーターフォール型開発は(本当は日本の社会自体にある悪い点とも思うが)失敗や誤りを許容しない全体主義のようだ。
失敗を認め誤りを訂正することこそが科学の本質である。開発手法に民主主義を取り入れる必要はないが科学の考え方は取り入れるべきである。
プログラミングは難しい。
抽象的であることが難しさの源泉でありプログラムの本質そのものだからカンタンにしようがない。具体的なモノにしようと試みてもただのシンボルの置き換えになるから冗長になって効率が下がってしまう。
でもPythonとかJavascriptはシンボリックすぎるので、もう少し普通の英文に近いと良いんじゃないか? そうすれば効率と難易度のバランスが取れる。中学生でも読める程度の英文のようなプログラム言語があれば実はベストなんじゃないか? 保守性も上がるし、詳細設計書はソースコードが兼ねることができるはずだ。結構良いアイディアかも。
昔の人はえらかった。60年前からそれはもうあった。
COBOLがそうだ。
週一回くらいの頻度でテレワークするくらいでも生活や人生観に変革が起きると思う。
そして人手不足時代。家にいる優秀な人材のスキマ時間で働いてもらうことが重要だ。そうなると計画的にタスクを細分化して割り振ること必須となる。日本が得意だった「すり合わせ」には膝突き合わせてのあうんの呼吸が必要たった。品質上必要な分野ではこれからも「すり合わせ」は競争力の源泉なのだから続けていく必要がある。だがタスクを細分化して多くの人に割り振るようなスタイルの仕事ではそうした「すり合わせ」は難しい。接合部分のアラはどうしても出てくる。だがそれは必要悪として神経質にならず前に進む必要がある。「すり合わせ」は誰も求めてもいない過剰品質だった部分も多分にある。
それより多様な人が多様な時と場所で同じ目的のために働くというのはとても楽しそうだ。
勿論、全ての人が最初から最後までテレワークで仕事が完結できるとは思わない。フェイス・トゥ・フェイスでの情報量は馬鹿にできない。それに人は社会的な動物だから孤独はツラい。週の半分はみんなで集まり、週の半分はテレワークするというのがモチベーションと孤立の観点でも良さそうだ。
いい時代になってきた。
時と場所は違えど同じ目的のために皆で力をあわせて働く。なんて素晴らしいんだ。
交通事故は身近な悲劇だ。クルマを運転している人は分かると思うがすごく簡単に事故る。自分のミスの場合もあるし、相手のミスの場合もある。天候や路面状況なんかの不可抗力の場合もある。
事故が起きると運が悪ければ死んでしまう。そう自分が死ぬ場合もあるし、人を殺してしまう場合もある。
ちょっと引き合わないくらいのデメリットだ。結構な確率で自分が死んだり、人を殺す可能性があるのだ。しかも運転中は後続車、対向車などのドライバーに生殺与奪を握られているも同然である。交差点で真横から衝突されない可能性はないし、分離帯の無い道路で反対車線に飛び込まれない保証は当然無い。
クルマが必須の田舎なら仕方がないが他に交通手段があるならクルマは極力運転しない方が良い。
クルマの危険性をテクノロジーで解決する自動運転技術。モビリティのサービス化とかクルマの未来も重要だが、とにかく最優先すべきは交通事故の低減だ。
法整備を急ぎ、できるところから部分的でいいし、完全自動運転で無くて全然OKである。ドンドン自動運転を取り入れよう。とにかく交通事故を減らしていこう。
交通事故が減ればみんな幸せだ。
ドライバを書く人。アセンブリで書く人。コンパイラ作る人。尊敬します。彼らこそドラゴンを倒す騎士なのだ。
もとネタは通称ドラゴンブック。コンパイラの作り方を解説した技術書です
DevOpsって開発と運用って利害が一致しないよね。でも協調が必要だよね。という誰もが当たり前すぎで言わなかったが良識ある人の心の奥底でフラストレーションが溜まっていたトコを拾ってくれた。そしたら「そうだよ。その通りだよ」と思いのほか共感が多く集まった というのがバズった理由だと思う。
ただ、ここまで人によって指す意味の変わる言葉は胡散臭さをともない始めてやがて使われなくなっていくのだが、所詮「開発・運用」という意味でしかないので消えずに残りそうな雰囲気もある。英語ってやっぱかっこいいよね。デブオップスだもん。なんか言っていきたい。
この世はメインフレームで回ってる。知ってる人しか知らない事実である。
露出が多いWEB系システムはごく一部である。システムの奥深くに鎮座して重要な処理や重要なデータを持っているのはメインフレームである。
面白くはないが重要な処理を黙々とこなすお仕事としてのコンピュータの姿の結晶であると思う。
Linuxのマスコットはtux(タックス)というペンギンである。そもそもOSにマスコットが必要なのかという疑問もあるが、都道府県にもれなくマスコットのいる日本人にはそれを問う疑問ではない。
みんなでよってたかって開発するLinuxのようなフリーソフトにはマスコットが必要なのだ。みんなの心を一つにまとめる象徴としての存在だ。
国や文化が違ってもみんなが共感できる「かわいい」「かっこいい」「おもしろい」マスコットが必要なのだ。そしてそこには特定の文化や宗教が関係しない動物や植物が適している。そういった意味ではサンタはキリスト教に関係しているので大規模なフリーソフトのマスコットには適さない。ペンギンを文化的、宗教的に嫌う人はいない。誰にとっても身近な存在ではないし、二本足で立つので擬人化しやすく四足歩行の動物より親しみを持ちやすい。ペンギンのぬいぐるみは多い。
結局Linuxのマスコットはペンギンがベストだったのだ。クマはクールじゃないけど、ペンギンは文字通りクールだ。