ゲド戦記

ジブリのアニメ映画「ゲド戦記」には心を動かされます。

死ぬのが怖くて仕方がない悪役クモ。

「怖い。怖い・・・」と死におびえながら主人公アレンと戦います。

アレンに至っては死ぬのが怖くて生きることにすら疑問を持ち、心は不安で一杯です。

「いつか死ぬのに。なんで生きるのか?」

アレンはジブリ映画ではありえないくらい汚い泣き顔で大粒の涙を流します。

そして「ひとつしかない命を生きるのが怖いだけ」とヒロインであるテルーに指摘されます。

私もそうです。生きるのも死ぬのも怖いです。私もクモでありアレンです。

でも人間って複雑なのは、私はクモでありアレンでありテルーでもあるんです。

いつか死ぬから、自然を美しいと思えるし人に優しくできる。分かってます。

でも哀しくて寂しいのが生きることの本質なんだろうなって薄々気付いちゃってるのです。

その辺一筋縄ではいきません。

それにしてもテルーの唄は何の救いもない歌詞です。でもこの歌を聴くとアレン同様救われた気がします。

ろうそく

日本と地動説

地動説は日本に徳川吉宗の時代に伝わり、すんなり受け入れられたらしい。
外国ではコペルニクス的転回(革命の語源でもある)であり、驚天動地のパラダイムシフトだった地動説。それをすぐに取り入れて、あまつさえ数十年後には西洋天文学を取り入れて寛政暦を完成させている。

良いものは取り入れてすぐに消化して自分流に作り変えてしまう。

これは今も続く日本の長所である。

 

アレクサンドリアの図書館

はるか紀元前の大昔にアレクサンドリアという変わった名前の都市に大きな図書館があった。
そこには多くの貴重な本があり、優秀な研究者達が議論を繰り返していた。
有名なユークリッドもそんな研究者の一人だった。
彼の名が冠されたユークリッド幾何学は2300年の間数学の最も重要な書物の一つであり続けた。
そしてケプラー、ニュートン、アインシュタインが科学に興味を持ったきっかけとなった。
だがアレクサンドリアの図書館は存在しない。4世紀ごろキリスト教徒により完全に破壊されたからだ。アレクサンドリアの図書館
図書館にいた最後の研究者は美しい女性だった。残酷にも暴徒に貝殻で体を切り裂かれて殺されてしまった。彼女を切り裂いた教区の司祭は後に聖人に祭り上げられた。
アレクサンドリアにあった本はユークリッド幾何学のような例外を残して殆ど失われてしまった。当時世界で最も進んでいた貴重な知識は再発見を待つ必要があったし、一部は永久に失われてしまった。
この図書館の破壊で人類の進歩は1000年以上遅れた可能性がある。
もしもこの蛮行がなかったら、今ごろ人類はどんな時代を生きていたのだろうか。環境問題、食料問題を解決して、不治の病の特効薬や不老長寿をも手にしていたかもしれない。
中世に生きた庶民の悲惨な生活を我々が哀れむように、現代に生きる我々が哀れに感じるような幸せな未来があったかもしれない

エジソン

エジソンは世界一の偉人である。

残念ながらアメリカでの知名度が下がっているという話もある。

近代で見れば文句無くナンバーワンの偉人であり、名言には心動かされるものが多い。

ほとんどの人は、もうこれ以上はムリだというところまで行きつき、あきらめてしまう。勝負はそこからだというのに。

この名言が一番好きだ。

そしてAppleのThink diffrentキャンペーンでもエジソンは登場した。

自分が世界を変えられると本気で信じる人達こそが本当に世界を変えているのだから

このナレーションとエジソンの映像には胸打たれた。

いつだって忘れない。
エジソンは偉いひと。そんなの常識。エジソン

雨の日の日曜の夕方

日曜の夜は憂鬱。

冬は日が短い早いから夕方でも暗い。

雨が降っていると霧に包まれてさらに暗い。

近所のスーパーに行くと夜7時前なのに、店内には人はまばらでまるで深夜のよう。

この世の終わりのような気持ちでほとほと嫌になる。

でもそれが人生の味。正味。

雨の日

バイオハザードに期待したこと

ゲーム中で机の上にあった日記を読む。筆者が徐々にゾンビになっていく様子が文面から分かる(「アルジャーノンに花束を」のよう)
読み終えると後ろのタンスからゾンビが襲ってくるので撃ち殺す。日記の筆者当人であったろうと思われる。

初代バイオハザードはそんなゲームだった。まるで洋ゲーのように突き放し、説明も回復アイテムも少なく、プレイする側の想像を誘った(アローンインザダークの二番煎じではあったが・・・)

それらが最初のバイオハザードに感じた美点であり期待だった。
それがいつのまにか説明過多で、想像の余地の無く、どこかで見たようなアクションゲームになってしまった。大変に残念である。バイオハザード

心に残ったゲーム

堀井雄二曰はく

「ゲームの楽しさの真骨頂は別の人生を生きられること」

僕はXBOX360の「FallOut3」で核戦争後のウェイストランドを生きたし「レッド・デッド・リデンプション」では西部開拓時代を二世代に渡って生きた。

ウェイストランドでは荒廃したワシントンの歴史博物館の中でラジオでオールディーズを聞きながらマンモスの剥製を眺めた。

ウェイストランド

西部では虫の声を聴きながら夕食の支度をする妻を眺めた。

西部の夕陽

この二つのゲームは本当に別の人生を生きさせてくれた素晴らしいゲームだ。

説明はほとんど無いし、理不尽なことも多いし、プレイする人を突き放すゲームではある。

でも人生ってそもそもそんな感じだ。

iPhoneは大衆とアップルとの出会い

アップルのセンスの良さや使いやすさは二十年以上前からよく知られていた。ただし知っていたのは一部のコンピュータマニアだけだった。

アップルが電話を作るようになってそれらは一般大衆も知るところとなった。

iPhoneはアップルと大衆の初めての出会いなのである。iPhoneはアップルと一般人のコンタクト

最期の時

死ぬ直前になると働く脳の機能がある。その機能が働くと幸福感に包まれ、神を見たり、死んだ肉親に会えるらしい。つまり死ぬのが怖くなくなる。

進化の過程で身に付けた麻酔のようなものであろうか。

死の直前、会いたい人が迎えに来てくれる幻想を見せてくれるなら有難いことだ。

思索するかえる

XBOX360と国粋主義

XBOX360は素晴らしいゲーム機だったが国内では売れなかった。

性能はPS3より良かった。同じゲームでもPS3より画面表示は綺麗で表示されるポリゴン数も明らかに多かった。ロード時間もPS3より短く、コントローラーも使いやすかった。個人的にはイメージカラーにライムグリーンを多用した点も格好良かった。

しかし売れなかった。

海外のゲーム機など面白いハズが無い。ゲームは日本が一番。という思い込みのせいだったように思える。

好いものは好いと認めなければならない。

 

XBOX360